「ピクニジェンヌ」ってあなた(改)
検索したら、paint/noteという日記が引っかかった。
そんなにマジメに罵倒しなくても。あれは「ツカミ」なんだからさ。それと「ピクニシェンヌ」「ピクニカビリティ」です。
実をいうと、たしかに「携帯型芝生で屋内でもお手軽にピクニックしようね」という提案みたいに見えちゃうんじゃないか、という危惧はちょっとはあったのだ。
でも、「空調の効いた美術館のフロアに、生きた芝生が切り取って置いてあるということ自体に、都市に基本的にオープンスペースが不足している、という事態に対する皮肉混じりの嘆きを感じる」とか、「天気も季節もいいのに、金払ってタワー最上階の美術館へ『作品』を『鑑賞』なんかに来てる人たちを外へ誘うインデックスになっている」とかさ、深読みしてよ(←それは無理)。
むろん、太田さんたちは、「多少の距離を億劫に感じてはいけない」などとは主張していない。ピクニックのために「多少の距離」を一生懸命移動しないといけない、という「現実」に対して、そもそもそれは違うんじゃないの、と言っているのです。
僕がピクニッククラブの趣旨について面白いと思うのは、「公園」を評価する視点として、けっこういいところを突いていると思うからだ。僕自身、都市に公園を、都市公園に「まともさ」を、求めることは、まったくやぶさかではない。ことに、木曽川の河原に作った木曽川のミニチュアのテーマパークが「公園」として賞をもらってしまう(2003年ランドスケープコンサルタンツ協会賞、一般部設計部門最優秀賞)という、おぞましい事態を考えれば。
ただ、「解放された芝生の広場をよこせ」とストレートに主張することにはいささか、ためらいがある。個人的に、アメリカでさんざん見てきたオブセッションのカタマリとしての芝生のイメージを抜きにして芝生を見るのは難しいし、オルムステッド経由のパストラルの掌中に素直に下るのもなんか悔しいし。東京の気候では、芝生の管理は結構ガッツが必要だ。もっと維持がラクな、意外な空地のありかたと楽しみ方を思いつけると面白いなと思う。たとえば雑木林の「ピクニック的」使い方、といふうに。
ピクニッククラブでは、特に昨夏のフィールドワーク以降、「都市・東京のために、高密度に住んでやってるんだから、せめていつでも利用できる芝生のフィールドくらい、すぐ近くによこせ」というまともに大上段な主張と同時に、「都市に意外なピクニックフィールドを発見して楽しむ、自分自身の心情を獲得することも大切だ」という主張も並列していて、僕はどちらかというと(自分のキャラ的にも)後者に興味があるのである。
上記への追記:
あらら。なんか妙なことになっちゃったな。(それにしても早い。ネットの検索はあなどれん)
まあ、もちろん受け取りかたは多様だろうけれど、「内輪の甘え」というのは、ある意味ではそのとおりである。もともと長い話があって、今回はその「一部」とか「片鱗」でしかないのです、という「不完全な表現」は、「表現において、問題となるのは実際の作品だけ」が要求される場では、メッセージとしては不誠実なものになるだろう。特に、「この作品は(ここで表現し切れていないところの)これまでのお話が前提になっている」などという「解説」を、作った側が加えたりすると、その不誠実さはなおさら際だってしまう。そういう余計なことを書いたのは僕である。僕がここに書いた「あれはツカミです」という主旨の発言はぜんぶ僕に帰する。ピクニッククラブの皆さんすみません。
あえて書いておくと、「むろん、・・・・」以下の部分は、あの展示の「作品」に関しての「補足」や「解説」ではない。なぜ僕が「ピクニッククラブ」の趣旨を面白がっているか、という話なのだ。だから「そんな趣旨はあの作品からは伝わってこない」と応答されても、そうでしょうねと言うしかないんだけど、paint/noteの書き手のひとの「批評」に引っかけて書いたのは悪かったですね。あんまり怒らないでね。(2004-03-25)
追記2:
いま読み返すと、なんかむかつくな。まあいいけど。(2004-11)


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