2004年2月15日

展覧会という媒体への接し方についてなど。

深川雅文さんという人のクロッシング展の感想:
http://bbs7.otd.co.jp/pg_web/bbs_plain

およびそこで言及されている土屋誠一さんという人の「試評」:
http://www.pg-web.net/off/tsuchiya/main.html

これは面白い。ううむ。なるほど。こりゃ、はしゃいでる場合じゃないぜ。
これは「展覧会というメディア」の形式に対する問いだな。

ここまでちゃんと言葉にできていたわけではないが、確かに似たような感じは僕も抱いた。でも「それで、それがどーした」という(深川さんによればあらかじめキャンセルされちゃってる)問いから、なんとなく僕らが免罪されているような気分でいられるのは、おそらく、僕らが出しているものがそれ自体「作品」として鑑賞して欲しいものであるよりも、むしろ「ツカミ」なんです、というちょっとずるい気持ちがあるためだ。

でもまあ、トートロジカルというなら、いわゆる「アート」というのは多かれ少なかれ、自己言及的というか、同義反復的なものなんじゃないだろうか。というか、「なんか表現されたもの」のうち、トートロジカルなものが他になんとも呼びようがなく「アート」とされる、というような気もするが。

もちろん、個々の作品やプロジェクトと、展覧会の意図とは別な水準のものであるのかもしれないし、個々の作者は、自ら好んで「自分がどの『領域』に属しているのか」などという発言をしたりしないだろうし、「分野」や「ジャンル」で括ったり分けたりすることのできない「表現」が個別に行われ、それをまた、まったく個別に特殊に享受する、というのが理想的なのかもしれない。

でも、現実には「アート」という「領域」や、その専門家のコミュニティは「ある」と感じられるし、その輪郭が(皮肉にも?)アートの「強度」を補強していることも感じられる。たとえどんなに自由な選択で「クロッシング」させようとしても、実際のところ「作品」は展覧会(を開催する美術館)に、物理的に設置できる物体や装置に限定されてしまう。それで、むしろそれが、「アート」っていう「ジャンル」に輪郭を与えてもいやしないか?というのは言い過ぎだろうか?

僕ら、享受する人たちの心構えとしては、「展覧会」や「美術館」自体がまるでアートであるかのような、過剰な期待はしないほうがいいのだろう。「建築ガイド」が、紹介される物件を建築にするわけじゃないのと同じように。キュレーターの目利きを楽しむ、というメタな楽しみ方は、不健全で退廃的かもしれないけれど、考えようによってはとても高度でスノビッシュな、「通」っぽい鑑賞だよな。

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