2004年1月23日

文化資本の偏在

本当は忙しくてこんなことを書いている暇はないのだが、なんてことを実際に「書いている」ということは、いよいよ本当に切羽詰まっているというわけではない、ということなのかもしれないが(いや、でも結構追いつめられている)。

http://www.geocities.co.jp/Berkeley/3949/today.html

ご返事を書きながら、どうしてこれまで私が『ため倫』や『寝な構』のような本を書いてきたのか、その理由が分かった(本を書いた後、何年もしてからその本を書いた理由が分かる、ということはあるのだ)。 私は文化資本の偏在による階層社会の出現をなんとしても阻止したい、と念じていたのである。 「一億総プチ文化人」というと聞こえは悪いが、私は結局、私が少年期、青年期を通じて過ごしてきた日本の「一億総中流時代」が社会のあり方としてはけっこう気に入っていたのだ。 機会平等が確保され、上昇志向のある人は好きなだけ上昇していただいて、あまりないひとはそこそこに、というふうにゆるやかに社会が階層化されていて、それぞれの個人的努力とアチーブメントが相関する社会。 私はそういうのが住みやすい社会だと思う。 いま私たちの社会は「住みにくい社会」に向かっている。 「努力しないでも、はじめから勝っている人が『総取り』する」というルールは社会秩序をいったんは紊乱するけれど、最終的には社会を鈍く停滞させ、人間を腐らせるだけである。 学校も家庭もメディアも市場も、そのことに気づいていないで、ひたすらその趨勢に荷担している。 私はそれにたいして「そういうのは、もうやめませんか」と申し上げているのである。 むかしのように、「努力した人間は報われる」というシンプルで民主的なルールに戻しましょう、と申し上げているのである。 親が無学でも、こどもが一生懸命勉強すれば、文化資本を豊かに享受できるようなルールに戻しましょうよ、と申し上げているのである。 そのための戦略が「一億総プチ文化資本家化」戦略である。

感動的。

山形浩生さんが「新・教養主義宣言」の前書きでほとんど同じことを述べていたし、西村佳哲さんが「自分の仕事をつくる」の後半で繰り返し述べていたこと、原研哉さんが「デザインのデザイン」のなかで「欲望のエデュケーション」と呼んだこと、塚本由晴さんが「読解力」と呼んだこと、山内彩子さんが「ユニヴァーサルキーワード」と呼んだこと、ぜんぶ同じことを言っている。

「『またガルバ?黒く塗っちゃうの?』なんてそのへんのオバサンとかに言われちゃうの、やだなあ」といつだったかOM氏が冗談を言っていたけど、そういうプチ建築評論家みたいなオバサンが増えるほうが、街の風景はよくなってゆく、と思うのである。

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