2004年1月 9日

子供が風ひいちゃったんで今日は帰ろうと思いつつ、

http://www1.plala.or.jp/masakey-o/
瑞々しい覇気が感じられる、よいサイトです(なにジジイみたいなことを言ってるんでしょうかわたくしは)。リンクしてくださっています。でも僕は「建築家」ではないです。念のため。

「建築ジャーナリズム」を憂う:
http://www1.plala.or.jp/masakey-o/public/arch/arch_media.html

うーん。「ばかけんちく」が主張しているのは、建築の批評というような水準じゃなくて、もっと「俺たちにわかるように語ってみろ」みたいなことなんじゃないだろうか。

でも、建築の根本的な枠組み、「建築」という思考そのもの、を問い直すような議論を「建築系」のメディアに期待するのは無理だし、酷だよなあ。たとえば、修道院の内部から「民族宗教としてのキリスト教批判」というような議論が沸いて出るのを待っても意味がないみたいなもので。

僕は、建築の業界内部でしか通用しないような言説に満ちた、思弁と机上の空論を弄する閉鎖的な媒体とか、ナアナアで誉めあってるだけの身内のための媒体はあってもよいと思う。業界のメディアというのは多かれ少なかれそうしたものだ。そういうところでしか鍛えられないような思考や言説はたしかに存在するし、必要な局面もある(造園にそういうのが少ないのが残念だ)。

だから、「建築系」でない人が建築メディアや建築コミュニティに苛立ちをおぼえるなら(僕もしばしば苛立つけど)、いっそ、社会学のフィールドワークみたいに、建築業界共同体を民俗誌的に取材してみたらどうだろう。そういうルポは読んでみたいぞ。きっと、相当に変で面白いと思う。

でも、「ヘン」というのは(当然ながら)相対的なもので、立場が変わればどんな分野も集団も「ヘン」に見える。僕の手元には園芸雑誌とかエコロジー関係雑誌とか、いまでは何気なく普通に見ているものがごろごろあるけど、頭を冷やしてみてみると、どれも相当に特殊で奇妙である。子供が生まれてから手に取るようになった、育児母親雑誌とか婦人雑誌なんてのもかなりヘンだ。

僕は新聞を取っていないのだが、たまに実家で朝日新聞なんかを広げると、その紙面を覆っている「特殊性」にびっくりしてしまう。新聞なんてみんな「普通」に読んでるけど、けっこうヘンだぞあれは。それとか、仕事柄関わることがある「市民参加」のワークショップなんて、多くの場合、普通からはほど遠い、「異様」としか言いようのない空間だ。いや、それは僕自身の特殊性がそう思わせるのだ、というのだろうか。でもそういうことを言い始めたら、誰だってみんな「特殊」だよなあ。自分がきわめて「まとも」なフツウの市民の感覚を持っている、と信じて疑わないことのほうが怖いと思うけどな(←さっそく『癒しのナショナリズム』の受け売り)。

建築物全体の量に比べたら、いわゆる「建築家」の作品なんて、本当に微々たるものだ。むしろ、建築系のメディアだけから情報を得ていると、まるで日本中が「建築家の作品」で覆われていくような錯覚に陥ってしまうんじゃないだろうか。だいたい、いくら何でも、建築系雑誌の追従記事を額面通り受け取って読んでいる建築家なんていないだろう。まさか。

僕の知見のおよぶ範囲なんて実に狭くて貧しいけれど、僕の知っている建築家の設計になる建物は、その周りに林立している「普通の」住宅やマンションや事務所ビルなんかよりは1024倍くらいマシである。

世間知らずの建築家を警戒するのは、心構えとしてはまあ、悪くないけど、実際に僕らが日常、最も頻繁に接しているのは、建築家が頑張って考えてつくった建物ではなくて、ものすごい勢いで増え続けている夥しい数の安っぽくて醜悪な建て売り住宅や、広告映えするマンションや、安価で施工の容易なアスファルト道路の面や、自治体の標準の街灯や花のロゴマーク入りのガードレールやらである。こういう「フツウの」建物や構築物が僕らの「フツウ」の感覚を蝕んでいること、のほうが、ずっとずっとずっと深刻な事態だと思う。ほんとに。

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