2004年1月30日

パスポートはどこへやったっけ。

実は来週1週間、中国へ出張する。

ただでさえ仕事が立て込んでいるのに、1週間も不在にするので、各方面への、その「始末」に忙殺された先週今週だったのだ。

という状況下なのに、お引き受けしていた雑誌(10+1)の原稿がひとまず、なんとか終了。

もっと時間をかけてやりたかった。と、別に今回に限らず、雑誌の記事の執筆や講演や展示会やら、そういうものをやらせてもらうたびに思う。でもまあ、僕の性格からして「タイトなスケジュール」に脅迫されないと「形」にならないということはよく自覚している。しかし今回も勉強になったなあ。こういう、「にわか勉強を強いられる」たびに、自分のモノの知らなさというか、世の中は実は自分の知らない面白いことに満ちている、という「世界の大きさ」を垣間見るような気がして、目眩がするのである。

2004年1月23日

文化資本の偏在

本当は忙しくてこんなことを書いている暇はないのだが、なんてことを実際に「書いている」ということは、いよいよ本当に切羽詰まっているというわけではない、ということなのかもしれないが(いや、でも結構追いつめられている)。

http://www.geocities.co.jp/Berkeley/3949/today.html

ご返事を書きながら、どうしてこれまで私が『ため倫』や『寝な構』のような本を書いてきたのか、その理由が分かった(本を書いた後、何年もしてからその本を書いた理由が分かる、ということはあるのだ)。 私は文化資本の偏在による階層社会の出現をなんとしても阻止したい、と念じていたのである。 「一億総プチ文化人」というと聞こえは悪いが、私は結局、私が少年期、青年期を通じて過ごしてきた日本の「一億総中流時代」が社会のあり方としてはけっこう気に入っていたのだ。 機会平等が確保され、上昇志向のある人は好きなだけ上昇していただいて、あまりないひとはそこそこに、というふうにゆるやかに社会が階層化されていて、それぞれの個人的努力とアチーブメントが相関する社会。 私はそういうのが住みやすい社会だと思う。 いま私たちの社会は「住みにくい社会」に向かっている。 「努力しないでも、はじめから勝っている人が『総取り』する」というルールは社会秩序をいったんは紊乱するけれど、最終的には社会を鈍く停滞させ、人間を腐らせるだけである。 学校も家庭もメディアも市場も、そのことに気づいていないで、ひたすらその趨勢に荷担している。 私はそれにたいして「そういうのは、もうやめませんか」と申し上げているのである。 むかしのように、「努力した人間は報われる」というシンプルで民主的なルールに戻しましょう、と申し上げているのである。 親が無学でも、こどもが一生懸命勉強すれば、文化資本を豊かに享受できるようなルールに戻しましょうよ、と申し上げているのである。 そのための戦略が「一億総プチ文化資本家化」戦略である。

感動的。

山形浩生さんが「新・教養主義宣言」の前書きでほとんど同じことを述べていたし、西村佳哲さんが「自分の仕事をつくる」の後半で繰り返し述べていたこと、原研哉さんが「デザインのデザイン」のなかで「欲望のエデュケーション」と呼んだこと、塚本由晴さんが「読解力」と呼んだこと、山内彩子さんが「ユニヴァーサルキーワード」と呼んだこと、ぜんぶ同じことを言っている。

「『またガルバ?黒く塗っちゃうの?』なんてそのへんのオバサンとかに言われちゃうの、やだなあ」といつだったかOM氏が冗談を言っていたけど、そういうプチ建築評論家みたいなオバサンが増えるほうが、街の風景はよくなってゆく、と思うのである。

2004年1月18日

雪は降るし

おお。もう日曜日になってしまった。うーむ。誰か時間を止めてくれ。

原研哉「デザインのデザイン」岩波書店、2003
通勤時、さらに出張先にも持参して、3度読んだ。これは感動的だ。書きたいことがありすぎて、急にまとめられない。いや、いい本を手にしてしまった。原さんを「21世紀、ついてゆきたい日本人ベスト10」に推す。僕について来ようとされても困るかもしれないが。

稲葉振一郎「経済学という教養」東洋経済新報社、2004
読み始め。読み始めからすでに期待大。でもゆっくり読書している暇のないこの週末なのだった。

248■今週の通勤の友(予定) Date:2004-01-12 (Mon)

田路貴浩編「環境の解釈学」(学芸出版社、2003)
明治大学で、田路先生のコーディネーションで開かれた、連続セミナーの記録の本。実は2年以上も前、明治大学の野村俊一さんからセミナーのことを教えてもらっていたのだが、その年の年末は「ランドスケープ批評宣言」の執筆と編集が山場を迎えていた時期で、なにしろ生まれて初めて「本を出す」というプロジェクトに舞い上がっていて、しかも事実上、編集グループ内の副編集長的な係(プチ副。ちなみに山内彩子さんが編集長的役回りで、『プチ編』と呼ばれていた)という重圧もあって、週末はほとんど、どこかへ出掛ける余裕がゼロだったのである。しかし、こういう企画はぜったい、そのうちに単行本になって出版されるだろう、と望みを抱いていたのだ。ふっふっふ。えらいぞ学芸出版。

小田亮「ヒトは環境を壊す動物である」(ちくま新書、2004)
書店で書名を見かけ、ハイハイハイ(またこの手の本か)、と、いちおう目次を開いてみたら、予想に反して進化心理学の本だった。すぐ買う。まだ少ししか読んでいないが、これまでのところ、よい入門書である。

僕の中では、進化心理学と、アフォーダンス論と、文化人類学(の一部)はわりと矛盾なくつながっている。いけるんじゃないかと思っているのである(ああ、迂闊なことを書いちゃった)。

2004年1月11日

品川沖のバリアフリー

仕事は仕事で、もうやんなるくらい忙しいのに、実は会社の仕事以外に、依頼を頂いて引き受けた仕事や、下書きしておかなければならない小論の作業などがあり、この連休中はずっとパソコンに向かってキーを叩いて文章を書いている・・・はずなんだけど。

土曜日は終日、なんだかいまひとつエンジンがかからず。無理になんとか書いてみたものの、気に入らない。すこし書いては一休みし、集めて積んである資料をめくったり、ふいにタバコを買いに外へ出たり、庭へ出たり、また机の前に戻ったりしているうちに日が暮れる。うーむ。

日曜日、雑誌の記事のために、朝から品川へ道路を(ひとりで)見に行く。

湾岸線はどこも、江戸時代から続く埋め立ての歴史が年輪のように、街や道路の形に刻み込まれている。特に品川のあたりは、南北に延びた海岸線がそのまま東へ埋め立てられていったため、「埋め立て史」がわかりやすい。京急の青物横丁駅あたりから東へ歩くと、ほんの1.5kmくらいのあいだに、旧東海道、元なぎさ通り、海岸通り、首都高羽田線、モノレール、京浜運河、湾岸道路、JR貨物線、コンテナターミナル、と、「路」のバリエーションをひととおり見ることができる。なんか、「物流の歴史の断面」というおもむきだ。

旧東海道や、そのあたりにときおり抜けている路地はまさに人の歩行のスケールでできている。海岸へ近づくほど、道や建物や車両のスケールが大きくなっていって、八潮の北部陸橋あたりは施設も表示もコンテナやトレーラーのスケールになる。つくづく、近代の道路の歴史は「車輌への対応」だったんだなあと思う。でも予想に反して、コンテナターミナルあたりの巨大で人工的な風景はそれはそれで楽しかった。寒かったけど。

休日のためか、港湾施設の周囲にはほとんど車がいない。大型車輌に最適化された、広々とした道路は、変な言い方だけどすごく「バリアフリー」である。段差も凹凸もないし、急カーブも急な傾斜もない。路面の表示やサインは大きくはっきりと、わかりやすく作ってある。考えてみれば、ハードウェアとしての車道はとても「バリアフリー」な空間である。車道を使えば、全国どこへでも段差・急斜なしで到達できる。車椅子というのは、カテゴリーとしては「車輌」に属している。だから、バリアフリー化というのは、歩道に「車道の論理」を持ち込むことなのだ。

2004年1月 9日

子供が風ひいちゃったんで今日は帰ろうと思いつつ、

http://www1.plala.or.jp/masakey-o/
瑞々しい覇気が感じられる、よいサイトです(なにジジイみたいなことを言ってるんでしょうかわたくしは)。リンクしてくださっています。でも僕は「建築家」ではないです。念のため。

「建築ジャーナリズム」を憂う:
http://www1.plala.or.jp/masakey-o/public/arch/arch_media.html

うーん。「ばかけんちく」が主張しているのは、建築の批評というような水準じゃなくて、もっと「俺たちにわかるように語ってみろ」みたいなことなんじゃないだろうか。

でも、建築の根本的な枠組み、「建築」という思考そのもの、を問い直すような議論を「建築系」のメディアに期待するのは無理だし、酷だよなあ。たとえば、修道院の内部から「民族宗教としてのキリスト教批判」というような議論が沸いて出るのを待っても意味がないみたいなもので。

僕は、建築の業界内部でしか通用しないような言説に満ちた、思弁と机上の空論を弄する閉鎖的な媒体とか、ナアナアで誉めあってるだけの身内のための媒体はあってもよいと思う。業界のメディアというのは多かれ少なかれそうしたものだ。そういうところでしか鍛えられないような思考や言説はたしかに存在するし、必要な局面もある(造園にそういうのが少ないのが残念だ)。

だから、「建築系」でない人が建築メディアや建築コミュニティに苛立ちをおぼえるなら(僕もしばしば苛立つけど)、いっそ、社会学のフィールドワークみたいに、建築業界共同体を民俗誌的に取材してみたらどうだろう。そういうルポは読んでみたいぞ。きっと、相当に変で面白いと思う。

でも、「ヘン」というのは(当然ながら)相対的なもので、立場が変わればどんな分野も集団も「ヘン」に見える。僕の手元には園芸雑誌とかエコロジー関係雑誌とか、いまでは何気なく普通に見ているものがごろごろあるけど、頭を冷やしてみてみると、どれも相当に特殊で奇妙である。子供が生まれてから手に取るようになった、育児母親雑誌とか婦人雑誌なんてのもかなりヘンだ。

僕は新聞を取っていないのだが、たまに実家で朝日新聞なんかを広げると、その紙面を覆っている「特殊性」にびっくりしてしまう。新聞なんてみんな「普通」に読んでるけど、けっこうヘンだぞあれは。それとか、仕事柄関わることがある「市民参加」のワークショップなんて、多くの場合、普通からはほど遠い、「異様」としか言いようのない空間だ。いや、それは僕自身の特殊性がそう思わせるのだ、というのだろうか。でもそういうことを言い始めたら、誰だってみんな「特殊」だよなあ。自分がきわめて「まとも」なフツウの市民の感覚を持っている、と信じて疑わないことのほうが怖いと思うけどな(←さっそく『癒しのナショナリズム』の受け売り)。

建築物全体の量に比べたら、いわゆる「建築家」の作品なんて、本当に微々たるものだ。むしろ、建築系のメディアだけから情報を得ていると、まるで日本中が「建築家の作品」で覆われていくような錯覚に陥ってしまうんじゃないだろうか。だいたい、いくら何でも、建築系雑誌の追従記事を額面通り受け取って読んでいる建築家なんていないだろう。まさか。

僕の知見のおよぶ範囲なんて実に狭くて貧しいけれど、僕の知っている建築家の設計になる建物は、その周りに林立している「普通の」住宅やマンションや事務所ビルなんかよりは1024倍くらいマシである。

世間知らずの建築家を警戒するのは、心構えとしてはまあ、悪くないけど、実際に僕らが日常、最も頻繁に接しているのは、建築家が頑張って考えてつくった建物ではなくて、ものすごい勢いで増え続けている夥しい数の安っぽくて醜悪な建て売り住宅や、広告映えするマンションや、安価で施工の容易なアスファルト道路の面や、自治体の標準の街灯や花のロゴマーク入りのガードレールやらである。こういう「フツウの」建物や構築物が僕らの「フツウ」の感覚を蝕んでいること、のほうが、ずっとずっとずっと深刻な事態だと思う。ほんとに。

2004年1月 7日

イワヒバの屋根

母校のウェブサイトを何気なく見ていて、修論のリストを見つけた。

農大造園の大学院:
http://www.nodai.ac.jp/daigakuin/subject/subject9.html

「最近の修士論文」:
http://www.nodai.ac.jp/daigakuin/subject/m/zouen-m.htm

研究論文や報告には、時々とても面白い、示唆に富むものがある(つまらないものもダメなものもあるが)。僕は、とても他人にお見せするような水準のものではないような、いい加減きわまりないものを作って「卒論」にした(もし、いまの僕が大学生の自分を指導する教官だったら卒業させないな)という暗い過去がある。今にしてみれば、実にもったいないことをした、と思っている。だから、いま在学している学生たちが実に羨ましいのである。様々な意味で大学が有しているリソースというのはやはり、ものすごい。そういう環境のなかで、仕事もしないで、一日中ずっと勉強/研究していてよい、というステイタスは、ほんとうに二度とない機会なのである。すくなくとも僕にとって、社会にでて、年を重ねるにつれて工面が難しくなったのは何よりも、「時間」なのだった。大学で「学生でいる」という事態は素晴らしいことなんですよ。君たち(ここにこんなこと書いてどうする)。

『日本における駅前広場のデザイン変遷史』
これは面白そうだ。見てみたい。

『建築フロント部の植栽が建築イメージに与える影響の分析』
これも面白そうだ。どういう建築を引き合いに出しているのかも興味あるし。

『都市域の水収支と緑地との関係に関する研究』
こういう、都市レベルの基礎研究も見たい。「水収支」という部分に惹かれる。

『開発制限区域の指定とゴルフ場分布の分析を通した近郊緑地と郊外緑地の考察』
『大都市近郊地域における緑地消失の要因分析』
『多摩N.T.の既存樹林活用型公園の実態並びに既存樹林の占有割合と維持管理費の関係』
『不動産価格分析による公園の外部経済効果の研究』
見たい見たい。

『北米の地域公園システムの特性に関する研究』
へえ。見たい。

『カツラのアレロパシーに関する研究』
こういう植栽材料の基礎研究も面白そうだ。カツラってアレロパシーがあったのか。

『無光ならびに人工光条件下における緑化用植物の生育可能性について』
これは、日常の業務でもわりと切実なテーマだ。見たい。

『屋根緑化材料としてのイワヒバの生育特性解明に関する研究』
こ、これはまた。「イワヒバ」ってところがマニアックで、なんか嬉しいな。イワヒバで覆われた屋根。。。すげえ。

2004年1月 4日

木を植える男

元旦は、両親と祖母が住んでいる家で、集まってきた叔父叔母従兄弟従姉妹たちと過ごした。
2日には伊那に住んでいる妹の家族5人が上京し、そこへ母がボランティアで教えている日本語会話教室の生徒さんたちが加わって、日本ベトナム中国インドネシア入り交じった汎アジア正月的会食になった。
サイゴンやらメコンの風景つきの結婚式の写真を拝見したり、インドネシア語を久し振りに聞いたりしていると、道端にデロニクス・レギーアの咲く雨期の熱帯アジアの空気がよみがえってきて、うーむ。またインドネシアに行きたくなった。

「パークハウス」を再見して、「木を植える」ということについてまた、あらためてうだうだと考える。人はなぜ木を植えるのか。

仕事柄、植物を扱うことは多いけれども、普段はつい、作り手の論理でものごとを見ているような気がする。たまに、パークハウスのオーナーのような、ガーデニングの「当事者」に直に接して、いわばプリミティブな「実践」を目の当たりにすると、そのことに気付かされる。

そこに住む人が庭に木や草花を植えたり、ベランダや窓辺に植物の鉢を置いたりする、それ自体はよくある光景だ(パークハウスのように、屋上にまで土を盛り上げて樹木をガンガン植えるというのは必ずしも「よくある」光景ではないけれど、パークハウスは、住宅の「屋内」と「庭」が交差して接しているみたいな作りなので、屋根といってもまあ庭みたいな場所である)。機会があれば、ぼくらは「植物を植えがち」である。

僕らが植物が豊かにある場所に惹かれるのは、これはもう、どうしようもなく僕らの中に刻み込まれてある強い「傾向」である。植物が多く生息しているという光景は、その場所の環境の「よさ」を示すものとして僕らの目に映る。生態心理学や進化心理学の説を借りるなら、生物としてのヒトはその生息するに適した環境の状態を見分ける能力を有していて、ある種の風景に魅力を感じ、快適さをおぼえるのは、本能として「そのようにチューニングされている」のである。

こういうことを言うと、それは「地面に植物が生えがちな」湿潤な日本に住んで、自然観・風景観を育んでいる僕の「ローカルな」感性なのではないか、というようなツッコミが必ずある。でも、極地で必死に、としか言いようがないような環境で生活している(いた)ような少数の極端な例を除けば、世界中どこでも、ヒトはおおむね温暖で植物の豊かな地域に生活している(いた)のである。生物・ヒトのニッチなんてそんなに広くない。

むろん「文化的な」嗜好の差もバカにできないくらい大きいだろう。庭園の様式なんて、時代や地域によってぜんぜん違う。でも、その庭園の様子が保証する環境、というような、いわば「庭園の生態学」的なレベルでは、たとえばイスラム式庭園と日本庭園とイギリス風景式庭園とのあいだにそれほど違いはない。

近代、イギリス風景式庭園の「輸出」と「普及」時代以降、世界中の庭園や公園が似たものになってしまった。それは、アングロサクソン的価値観・自然観による「風景のグローバリズム」、木下先生の言う「パストラルの世界制覇」という一面もたしかにあるのかもしれないけれども、それだけでは説明できないように思う。もともとヒトはそういう嗜好を有していて、パストラルな風景デザインの手法がそこに「はまった」という見方はないだろうか。独自の伝統的庭園様式なんて、それまで、それぞれの土地の固有な事情に制約され、やむなく自然環境にある程度寄り添って作られていただけで、造園・土木技術によって大々的な造成が可能になった途端、潜在的嗜好が発現して、いわば多数決で「パストラル」は選ばれた風景なんじゃないだろうか。なんてことを思うこともある。

と、あれ?こんな内容の話になるはずじゃなかったんだけど。でも眠いので、以下、つづく。

・現実に、限られた資源や住宅地的制約のなかでガーデニングするということ
・「森林」と「維持管理」について
・SDの「ランドスケープのディテール」特集で腑に落ちなかったこと