2003年5月27日

感覚アンテナ

先日の造園学会・学術分科会でご一緒した杉浦榮さんによる、「子供向けワークショップ:『感覚アンテナ展』」
http://www.s-2.jp/image/main/projects/kankaku.html

黒く塗った床に世田谷区の航空写真が天井から投影されている。参加者は直径10センチくらいの丸い白いシートを「自分のお気に入りの場所」に貼ってゆく。多くの参加者が貼り付けてゆくことで、「お気に入り連鎖マップ」みたいなものが浮かび上がってくるわけだ。
これは。冴えてる。すごくいい。

杉浦さんは、大学で社会学部を出たあとGSDでランドスケープデザインを修めて、しばらくSEDO(三谷さんらがいたところ)で仕事をし、独立した人。分科会の議論はそれはそれで面白かったのだが、杉浦さんはちょっと「まともなこと」を言い過ぎる、というか、本音の語りが出てくるまでに時間がかかるたぐいの人のようで、(まるで書いてあるものを読んでるみたいな「正しい」意見を言う人である)もっとくつろいだ場面でじっくり話をしてみたい。

杉浦さんの「ランドスケープのエッセイ」
http://www.s-2.jp/NewFiles/about-landscape.html

以下は、別なワークショップで、同じものが、杉浦さんからワークショップの掲示板に投稿されたとき、僕が返信したもの。

『物体的なカタチをゴールとするのではない』とか『風景の良さは客観的に実在するわけではなくて、その土地のオリジナルなキャラとそこに住む(使う)人たちとの間に「あらわれる」ものだ』というような言説は、「態度」の表明としてはわかるような気がしますが、今となってはプロテストであるよりむしろ正論になったように思いますので、いささか気になった点について、「議論のため」ということで。 杉浦さん: >「風土」が、自然とひとの終わらない連鎖によって形成されるものだとすると、我々に可 > 能なのは、その連鎖の一過程に、一石を投じることだけだと思われる。それによって、ど > のようにその連鎖が変化するかを、方向付けることはできたとしても、完全にコントロー > ルすることはできない。また、そのように自然とひとの関係が連歌のように連なり「風 > 土」の循環が機能している状態を、「風土」が生きている状態ととらえると、「風土」の > 連鎖が断ち切られ、その循環が停止しているような状態は、「風土」が死んだ状態である > といえる。敷地の全てを一律に造成し地域性を鑑みず紙面の経済効率からプログラムがた > てられたようなバブル期の開発のあり方は、後者に属するものだったといえよう。一方、 > 誤解を恐れずにいえば、やみくもに保全を唱えるのも、状態を硬直させるという意味にお > いては、同様の事態をひきおこしかねない。(極論をいえば、環境保全の問題には、我々 > を含めた生命体の生息地をまもるという最終的な意図があるにもかかわらず、究極の解決 > は我々が死滅することだという矛盾につきあたる。)このような両極の「死んだ」状態に > 陥った「風土」から生まれる「風景」には、それを支えるリアリティがない。そのため、 > このような開発地(あるいは保全地)を含む周辺の地域は、長い間には機能不全に陥ると > いう事態に、往々にして至るようだ。 その語法で、こうも言えないでしょうか?どれほど山をケズって谷を埋めたとて、それが「敷地」という現実の土地の拡がりの上に行われる操作であり、かつ「経済」というどうしようもなく社会的な事象に絡め取られている限り、風土性から完全に逃れることはできない。乖離が生じているとしても、しょせんは「ある射程距離」の範囲内での話ですよね。あるいはまた、ある敷地に対して「やみくもな保全」がなされても、むしろそういう「引退した区画」は、その限られた土地から「人間活動」が排除されることで、その地域はそこに特有のリアリティを「抱え込む」ことができる。場合によっては下手に構想された「自然と人間の関係性」よりもずっとエコロジカルで「公平」なランドスケープになりますよね。 風景を支える「リアリティ」は、文脈によってまったく異なるものになりうるし、風景が「発見されるもの」であるという、風景のいわば相対主義的な立場に立てば、その文脈の「抽出のしかた」がまさにリアリティを規定する(風景が発見される)ことじゃないでしょうか?そうすると、風土が「硬直した」状態、「死んだ」状態を「悪い」と評価する論拠って何なんでしょうね?あるいは何をして「生きた風土性」を見出すのか? 仮に、「生き生きとしたよい風土性」という事態がそこに想定されうるとして、そしてその事態を生むため(誘導するため?)に有効なデザインが行われるとして、それが作用するためには、最後は空間的に「結像」しなければならないわけですよね。風景のリアリティとは、その「像」の強度というか「射程距離」なんじゃないでしょうか。「どこまで考えて作ったか」というような。いったい何を解決しようとして提案されたかにもよりますが、インターフェースの表現として選ばれるなら「郷愁」だってバカにしたもんじゃないと思います。(というか、郷愁が否定されるのは、端的にかっこわるいことが多いからなんじゃないかと思います) なんか、「風景」に対して「風土」っていうメタな概念を導入しても、結局はその「風土」をメタに記述する言葉を探さざるをえないんじゃないでしょうか。重要なのは、ともかくも「今の時点で」最善だと思われる「見切り発車ポイント」を探ることではないでしょうか。

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