田中淳夫著『里山再生』(洋泉社新書y、2003)を読んだ。この手の「里山本」のなかではわりといいスタンスで、それなりに面白かった。入門書としてはいい本なんじゃないだろうか。
「里山とは何か」というのは、ちょっと変な問いの立て方だ。近年の里山の「発見」が、ある特有の「様子」を「里山」と呼ぶようになった、ということからすると、「里山とは」という問いかけは本当は「こういう条件と要素が揃っている場合、それを『里山』と呼ぶことにしようぜ」という「提案」でしかないはずなのだ。たとえば「盛り場とは?」「下町とは?」と同じように。
著者は、里山をして、「自然」に人が介入し続けることで成立する「システム」だ、という。それは妥当な言い方だと僕も思う。里山は、ある特有の社会的・自然的条件のもとに相をなしていた、ある特有の状態だ。「生物的多様性」がよく言われるようになってきたけれども、それは、多くの人がそこで昔ながらの農業を営む「しか」生き方の選択がなかったという社会構造の結果としてうまれたものであって、農民が生き物と共存・共生しようとして里山を作ったわけじゃない。
だから、その「構造」に注目すれば、「里山的事態」は山辺の農村だけじゃなくて、様々な場所に見つけることが出来るだろうし、解釈の仕方によっては農村とはまた異なる「システム」のもとに成立しているのを見つけることもできるだろう。著者が紹介しているゴルフ場もそうだろうし(霜田くんに教えてもらったが、ゴルフ場が里山的生態系を維持しているという論文があるそうだ。読んでいない)、線路際や下町の路地や都営スタイルも、そういう人為的営みがその地域の自然に対して恒常的に続いている結果、ある安定した相をつくりだしている風景という意味でとても「里山的」である。
著者が最後に述べている、里山的なものを再生・維持するためには、あたらしい時代のシステムをつくるべきであって、それはこれまでの農村的システムとは異なるものかもしれない、という言い方にはだから、共感をおぼえる。
でも、同時に疑問も感じるわけです。里山がある種の人を惹きつける直接の理由はやっぱり、あの郷愁を誘う、「新日本紀行」的光景だろう。生物的多様性も水田の洪水調整機能も食糧自給率も、その郷愁を正しいものにする補強として用いられるんじゃないだろうか。ほんとのところは。ノスタルジーってよくバカにされるけど(僕もよくバカにするけど)、こういう官能的な動機は最も強力で、重要な部分かもしれないと思うときがある。「風景はどうしてあるのか」ということにおいて。
そうすると、仮に里山を守ることが是だとして、目指すべきは里山的システムの構築やら里山的事態のプログラミングよりも、ぜんぜん異なる原理を用いてでも「里山っぽい見かけ」を維持すること、だったりして。